最近時間があったので本を読んでいました。
5月は6-7冊くらい読みましたが、そこからお気に入りのシッダールタ、音と言葉を紹介してみます。イネス・リグロンの世界一の美女の創り方も面白かったですが、またの機会に紹介したいです。
・シッダールタ(ヘルマン ヘッセ)
シッダールタ(仏陀とは違います)が悟りに至るまでの過程を描きます。
自己探求と自己実現という主題にそった作品といえるでしょうか。
同名かつ生まれも上流階級で、途中の苦行など含めて明らかに仏陀と類似した設定ですので、仏陀の悟りへの過程とシッダールタの過程を比較してヘッセが何を伝えたいのか少し考えてみました。
私の印象に残ったのは、仏陀が35-36歳と若くして悟った天才肌の印象が強いのに対し、シッダールタはその時期に仏陀と会いながらも帰依せず、自分の人生を更に探求し、人生の最期の時期にようやく悟る。そこの相違点が一番面白かったです。
シッダールタが仏陀の教えに帰依しなかったというのは、悟りという行為に飽くなき自己探求が常にあり、他人の教えを盲目的に信じることは悟りの道ではない、ということでしょうか。
ヘッセの考える悟りとは「こうなれば良い」という明確なゴールではなく、常に自己の内面を見つめ続ける行為そのものなのかと思いました。
また王の子として生まれた仏陀は出家をして苦行をしそして悟るのに対し、バラモンのシッダールタは苦行のあと、俗世で優雅を極めてからその地位を捨てて悟る。
バラモンと王家の差はあっても、どちらも俗世の中で裕福な地位にいて子供を授かってからそれを捨てる、という行為を経ているのは面白い。
シッダールタは離れたあとも、自分の子供に振り回されてしまう普通の親らしい一面をもち、そしてその感情を把握しながらも、それを自分自身で受け入れているシッダールタには愛着がわきます。
俗世からただ離れて教えに没頭することが悟りの道ではなく、俗世というものから付かず離れず、それを含めてありのままに見つめて全てを受け入れる事が悟りへの根底であると考えているのかもしれません。
全体を通してシッダールタはいわゆる「俗っぽい」印象が沸くときがありますが、それこそが大切なことではないかと思いました。
あくまで仏教は大衆と身近な存在であり、そして誰でも悟りの道に入ることが出来るという受け入れの広さの魅力を強く感じました。
洗練された表現はもちろん言うまでもありません。かなり名著でまた読み返したいです。
・音と言葉(フルトヴェングラー)
友達から誕生日プレゼントとして前に貰いました。
第二次大戦前後に活躍した名指揮者による著作。
各作曲家の解釈に関する音楽の本としても受け取れますが、どちらかといえば哲学書です。下手な哲学者顔負けの透徹な思索で、難解な言葉も沢山出てきて最近哲学系の本を読んでいなかったので結構抵抗がありました。
時代背景からかニーチェとワーグナーの対立についてかなり深く述べられています。「ニーチェは大衆の自己僭称・知ったかぶりを操作するすべを知っている人」と手厳しいです。
特に印象深かった要旨をまとめてみます。
・演奏について、楽譜に忠実か、創作的な演奏(演奏者の独創性に任せる)かという論点は間違いやすい。たとえば楽譜でフォルテ記号があっても、実際の強さは楽器・ホールによって違い、明確な正解はない。また創作的という視点では、少しでも理屈があれば自分勝手な解釈による演奏に陥りやすい。
・歴史的な解釈を重視しすぎると、作品と自分との関係が崩れて、ただの傍観者・批評家になってしまう。芸術性は非歴史的で、その面で普遍妥当である。誰にでも分かりやすい、という意味の普遍的とは全く別物である。
・解釈の問題において、作曲は心的な衝動から外部への発展であるのに対し、解釈においては外部からその曲の全体を作る精神を探る行為である。
全体的に演奏のための解釈は作曲者の精神を探る行為を基にした、自己と作品との2者間の関であって、人の解釈を鵜呑みにしたりする行為を厳しく非難しているように感じました。
こういうのをあんまり意識しすぎると、私みたいな趣味レベルではピアノが弾けなくなってしまいますが、もっと作品に敬意を払って曲を分析しないといけないな、と反省です。
成功を加速する名言
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